2012年5月14日月曜日

もつかな

もつかな、もつかなと思いながら私は11月を意識している。
半年前に書いた状態が、ずっと、通奏低音のように続いている。
だから意識して活発に言葉を発し、物を買い、
会いたい人には無理を押してでも会っておいている。
元気に。


それなら違う生き方を思い切ってすればいいと
人によっては言うのかもしれないけれど
もう、締め切りは半ば決まっているので
困る。


私はたぶん、生きることが好きだ。
友達も本も家族も洋服も好きだ。
自分のことも割と好きだ。
それでも、なんでだろうね。


きっと疲れているんだろう、と考えるようにしている。
それでも、くたびれてしまった。


締め切りを過ぎても生きているなら
それはそれで結果オーライということ。
ただ、締め切りが静かに動かしがたくあるので、
妙な話、却って最近は充実しているとも言える。


誰かのために生きて何かをすることと、
自分を自分としてdefineして維持することと、
その両立は厄介だ。


これから初夏が始まる。
そして梅雨が訪れ、嫌いな夏になる。
そして残暑のあとで秋が来る。


ライダースジャケット、本当は次の冬だって着たい。


安心感と威圧感を双容する、暑く硬く弾力のある重厚な壁が、
のんきな針天井みたいにゆっくりと、
小刻みな秒針が敷設してゆく時間のレールの向こうから
のんびりと近づいてきている。

2011年11月4日金曜日

夢の中での引っ越し

私の夢はたいてい続き物で、
かれこれ数年感、あちらの生活も並行して行っている。


1年に1回くらい引っ越すのだけれども
毎回、引っ越すたびに部屋が広くなる。



2011年10月17日月曜日

よくない状態

希死念慮がある。


この5月から、ずっと続いている。
仕事中は安全だ。集中しているから。
買い物中も安全だ。集中しているから。


うっかり気を緩ませた時に、死にそうになる。
切迫感や焦燥感のある絶望に苛まれて死にたいと思うのではなく
「ああ、そろそろ死のうか」という思いがこびりついて離れない。


薄まらない。押しやれない。


ゆっくり付き合って行くしかないんだろうか。
そろそろ誕生日だ。


私は、何となく、30歳にはなれない気がしている。
それまで気が持たないだろうという意味ではなく、
ぼんやりとした予感として。


来年の手帳を買った。
来年の手帳を買った。


死んではだめです。
死んではだめです。


親を悲しませてはいけません。
親より先に死ぬのは最大の親不孝です。


それでも、どうしてこんなに
死ななければならないという考えが浮き上がってきてしまうのか。
碇を繋いでいた鎖が、腐食して千切れてしまったようです。


私には私の死への慢性的な、濃霧のような歩みを
どうにか留まらせることができるのでしょうか。


何が嫌になったとか、何に追いつめられているとか
そういった類の勢いある死への駆け足ではありません。


足下に溜まった水がだんだんと今、太腿あたりまできていて、
どこに水抜きの栓があるのだか分からず、
それを自ら探し当てようと言う気概がないという現状です。


死にたくはないです。
遺書を書けば薄まるかと思って何度も書きました。
しかし薄まりません。


私は、私の精神が死へなびいていくことが恐ろしい。

2011年9月16日金曜日

たつ時には

母親には 飲みに出たと伝えて
父親には 嫁いだと伝えて
弟には  大丈夫だと伝えて
叔母には ごめんねと伝えて
祖母には 遅くなると伝えて
友人には 軽蔑してもいいと伝えて
恋人には 少しの間だけ私を覚えていてと伝えて

2011年7月18日月曜日

嘘と沈黙

嘘をつくくらいなら、黙っているほうがよい。
これは私の持論の1つである。


沈黙は、嘘ではない。
言葉は、真を目指しても嘘になるくらいだから、
嘘をつくくらいなら沈黙を選ぶ。


その沈黙が肯定と捉えられようともその逆となろうとも、
そうして相手に判断を委ねるような形にたとえ見えようとも、
それでも私は嘘より沈黙を選ぶ。


だから私は、よく話をそらす。
だから私は、よく人に質問をする。


真を伝え合いたい人とは、
同じ話題を飽きもせず続けて、
しかも私が喋り手になりがちである。


聞き上手だねなどと私に言うような人間は、
たいてい私が重要視していない人間だ。



2011年7月17日日曜日

言いたいことと、伝えたいことと。

言いたいことを言うのは大事かもしれないが、
単なる我欲の範疇に陥るおそれを多分に含んでいる。


伝えたいことを伝えるのは難しいが、
私はこちら側を生きる。


会いたい人には会いたいと言い、
会えて嬉しければ嬉しいと言い、
愛しているのならば愛していると言う。


言いたいこと、と、伝えたいこと、とは
似て非なるものである。


前者は、ともすれば投げっぱなしのボール。
後者は、受け手への感情が少なからずこもっているボール。


私が、あなたに対して何も語らないのであれば、
あなたに伝えたところで私には何の価値もないと思っているからだ。

稚拙な思わせぶり

思わせぶり、という態度自体は好きでも嫌いでもない。


ただ、下手糞な思わせぶりには反吐が出る。


自然体を装った思わせぶり、も別にどうでもいい。


しかし、装っているという部分が透けてしまっているのは、
もうどうしようもなく痒い。
そういう類の人間に限って、肝が据わっていない。


浅い。
浅いものは嫌い。
浅はかなものも嫌い。
拙さを自覚していないものも嫌い。


だいたいにおいて、この頃出会う人間は手を抜き過ぎているのが多い。
抜かりのない人間は一歩まちがえばこちらの息が詰まるが、
自分というものを上手に仕上げて振る舞う人間には感嘆する。


感嘆したい。


反面教師が多いのだと前向きに捉えてみよう。
私から、きちんとしてみよう。


しかしまあ、雑な大人の多いことよ。