2011年7月11日月曜日

ポップとコミットメント

ポップ:大衆的なもの、と辞書にある。
コミットメント:誓約、注傾といったものである。


はじめに断っておくと、私はどちらの言葉も好きではない。
コミットメント(いっそ柵にもなりうる)から逃げたい人が
無責任にわーわー言っているのがポップかと思っていた。


だが、ポップが対象とする大衆は、
何らかの抑圧を根底に持っている。


昨日までは、ポップにコミットするひとは
単なるミーハーかと片付けかけていたのだが、
突き進んで行くとそう簡単なものでもないらしい。
ポップにはコミットメントがない、と考えていたのだ。


ポップを馬鹿にしていた私のポップ感を変えたのは、
今更ながらマイケル・ジャクソンである。


「KING OF POP」と熱叫するファンたちの姿を見て、
この「POP」は「J-」や「K-」のつく「POP」とは違うと感じた。


そこを掘り下げて行く。


かの時代、「POP」は「ROCK」と通じるもののある、
レジスタント的な立ち位置にある文化ではなかったか。
何に対してレジスタントであるかといえば、
自身が個人的に抱えている劣等感やアンフェア感である。
そういったものをかっさらって余り在るものとしての
「POP」に、彼らは自分をネガ投影してコミットしていた。
人種や、スラムや、性的マイノリティや、その他。


では、現在の所謂POPとは何か。
反骨する対象を失った人たちが、
欠損部分を埋めるやけくそな方法として
半ば無意識な盲目さでPOPに傾倒しているのではないか。


日本に限れば、POPアイドルやPOPアイコンなる者はあれど、
POPスターは存在しないと私は思う。


積極的に自己の抱く劣等感と対峙していた人の多かった時代のPOPは、今日び、
当局が、積極的な消極性で蔓延させたルサンチマンに対する受け皿となった。


お仕着せのPOPであり、オナニー的POPである。


そんなものにコミットしたがるのは、
よっぽど行き詰まっている(のに気付いていない)からとしか思えない。




ポップとコミットメント。
もう少し考える。





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