2011年6月18日土曜日

胸を掻いた



胸に爪を立てて強く掻いたら
ぞらぞらと洞穴の音がした
ここに何もない筈はないのに
鎖骨の下は 留守だ







情緒の正体

人の話を聞くのが好きだ。


想像を超えた具体性があるからだ。


具体性のある、ディティルのある話を聞いていると
その辺のニュースよりもよっぽど興味深い。


思うに私はディティルのある人が好きなのだ。
身の回りの品々や、茶飯事の手順に拘るという意味ではなく、
その人なりの細かな気付きを持って毎日を暮らしている人。


大きなものを上から下へ、あるいは右から左へというのではなく、
小さなものを、小さなものとして伝える人を好ましく感じる。


靴の中にいつ石が入ったのか不思議に思った、だとか
僕の自転車には前に3つ、後ろに8つのギアがついていて、だとか
どうでもいいことは、本当は、決してどうでもよくなどない。


不幸せなことにも、幸せなことにも、
それぞれかけがえのないディティルがある。
だが、幸せにも不幸せにも明確に計上できない物事には
遥かにたくさんのディティルがある。


考えてみてほしい。
この一日のうち、どれだけのあいだ幸せを感じていて、
どれだけのあいだ不幸せに陥っていたか。
あるいはこのひと月のうち、またはこの一年のうち。


日々のこれそれにある具体性をどれだけ無意識に保持していられるか。
たぶん、私が考え自他に求める情緒というのはこれにかかっているんだろう。









2011年6月14日火曜日

引っ越し

今度引っ越すから、もうここにもあんまり寄れなくなるな、
とか何とかいって、ちょくちょく顔を出す店に
ワインの一本でも持ってふらりと入って来た人がいた。


その人も少し酔っているようで
もちろん店の中は皆あまさず酔っていたので
仔細な長話はせず、そのわりに顔見知りたちと
さみしくなるな、なんてしみじみしていたりもした。


どの辺に?と聞かれたその人は、
詳しいことはまだ分からないんだけども
住所決まったら、まあこの店にでも連絡するよ、
なんて答えて、お持たせを空にして帰った。


それからしばらくして、
店のマスターが人づてに知ったところによると
その晩の人は、その晩からひと月経った頃に
自分を頸って死んだのだという。









「実」の在処

「実(じつ)」はどこにあるのだろうと考える。


世にも人にも実がなければ生きて行く甲斐がないというものだ。


それとも、実を得たり創ったりするために
一見あくせくと、遠目には大概似たように生きているのだろうか。


実を目指して、実に向かって、
それを渇望しているのだろうか。


あまりに味気ない。
すべてが、つくりもののように見える。


そうです人間は本当は電池で生きています。
地球は、大きな生き物の細胞ですが、
大きな生き物と人間との間に位置する知性体というのもいて、
人間というのはその中間知性体のすごろくなんです。


なんて言われたらそうなのかもしれないと、
初夏の夜の空気に探す肌寒さ程度には納得してしまいそうだけれども


ではなぜ私は私で、
妙な愛のようなものを抱えて右往左往しているのだと問いたくなって
何に問おうか分からないときには空の方に顔が向くので
やはり中間知性体みたいな奴がいるのかもしれないと
ぐるぐる変なことを考えているのです。







弟子はさみしい

私には師匠が4人いる。
心の中で師匠と敬っている4人。


ひとりはサックスの師匠。
ひとりは自由人の師匠。
ひとりは頑固者の師匠。
ひとりは日本語の師匠。


自由人の師匠が結婚した。


先月、2年か3年ぶりに会ったときには
全然そんな話にならなかったんだけども
ついに結婚した。


自由人の師匠が、いつのまにか40代に入っていたことに
先日のぶらぶら散歩中に知ってそれは驚いたものだ。


弟子はすこしだけさみしい。



2011年6月10日金曜日

もしも世界が100人の

「もしも世界が100人の村だったら」といった本が
一時期流行ったのを思い出した。


それに対して禁じ得なかった違和感の正体が
物事がほぐれるようにやっと最近になって分かった。


あれは、「あなたは相対的に幸せであることを知れ」というものだ、
と私は理解しているのだが、その「相対的に」というのが頂けない。


人間は、絶対的に、つまり自分の満足水準として、
幸せであるかどうかを自分で感じるべきなのだ。


物理的尺度、無機質な情報サンプルとして
人間をクラシファイするのは不自然だ。


得体の知れない感謝の強制によって
納得のいく幸福度に繋がるとは思えない。


きっと、比較の上に成り立つ幸福尺度にすがりつく他ないほど
自分なりの価値基準や幸福判断ができない風潮の時期だったのだと思う。


今はどうか知らない。







2011年6月9日木曜日

背中を読む

部屋を片付けた折に、
枕元の本棚に置く本のラインナップを変えた。


枕元の本棚というのは文字通り、
枕に頭を置いたままで手が届く、
ベッドに隣接した本棚だ。


枕に頭を置いたまま右を向けばそのまま眼に入る一角を
今までは、未読本を置くコーナーにしていたが、
これを新しく、気に入りの本だけを置くコーナーにしてみた。


覿面である。


夢十夜、漂流物、香水、柿の種、バートルビー、
蜘蛛女のキス、タクシー運転手の賢言…。


背表紙を眺めているだけで安心する。
何度も観た映画(見慣れた映画、とでも言おうか)を
BGMに流している感覚になる。


新しい本を次々に読まなくては、というのは
単なる一種の強迫観念であり、またある種のプライドである。


一連の背表紙を眺めていると、
そういった気負いから解放される。
本に対する気負いから解放されると、
「気負いからの解放」が他の事々にも伝播するようで
なんとも気楽な、ゆったりした脈になる。


そうして、矛盾するようだけれども新たに、
ここに加わるべき相性の良い本を見つけていきたいと
非常に穏やかに望むようになる。


対人関係についても同じようなものかもしれないなと思う。
背中や横顔を見ているだけで安心できるような旧い人は大切。
新しい人間関係をとりあえず広げなければというのは
強迫観念でもありプライドでもある。
一方で、人との新しく深いつながりに、まだ希望を抱いてもいる。


捨てた方が良さそうな気負いは
探せば探すだけありそうだ。
穏やかに欲するべき事と同じ数だけ。


そして眠る。



2011年6月8日水曜日

根も牙もなく

私の想像する、最近の量産型人間の成長過程。


幼年:
若い父母のもとに生まれる。
市販の食料やおむつを与えられる。
家具の角には尖ったところがない。


幼少:
危ないところには行かないようにと言われる。
そもそも行ってみたいとも思わないし
一緒に行こうかと思った同級生は塾で忙しい。
一人で立ち寄った公園は閑散としていて、
「大声出さないで」「ボール遊び禁止」の札が掲げられてる。


この時点で、虫を殺したこともなければ
派手にすりむいて大泣きしたこともない。
少し熱が出れば、市販の熱冷まシートが待っている。


思春期;
型通りの受験勉強をおえ、落ち着くべき進路に入る。
点数で振り分けられたところの。
あるいは一足早く働き始める。
このころから、セックスと年金について考え始める。


少年期;
アングラなもの、サブカルなものに釣られる。
しかし、サンプリングされているのは誰なのかとか、
オマージュの対象になっているのは誰なのかとか、
どんな会社がその「もの」に関わっているかには無関心。
ここで大半が、エイベックス的なものか、電通的なもの、
UST的なものか、ファストファッション的なものにかっさらわれる。


青年期;
自分の町が他の町とだんだん似て来ている、という
致命的な事実に気がつかないまま、
自分の町の特色について知ろうともしないから
「やっぱ地元って落ち着くんだよね」というトーンで日々が過ぎる。
チェーンの居酒屋で仲間内で飲む。アルコールならなんでもいい。


その後は私にも未経験の領域であるからここからは想像。


・精神的に、何にもコミットしていない
・チェーン店:安くて便利、だと思っている
・つぶれて行く個人店の殆どには入ったこともない
・あの店(もちろんチェーン)が近所にできた!でちょっと喜ぶ
・中堅どころの知識人を取り巻ける人は取り巻いて、
 その内容よりも追っかけている自分に満足している。
 そして、自分そのもの裸一貫分の自分に満足しているかどうかは
 考えようとしてもすぐやめる。


この間じゅうずっと、年金とセックスについて考えている。




どこかに覚悟を決めて根を下ろすこともなく、
降りてしまった根の上でいっぱしに眉なんか寄せてみるけれども
寄せる根拠なんて2センチ掘り返した時点でわかるくらい何もなく、
空虚の代わりに惰性が横行しているので本人たちはそれなりにざわざわしていて
しかし、うさんくさい広告代理店やなんかの策略どおりに動いている、
均一都市化に、自分の個性(あれば)も含め絡めとられている。
そのことに気がついていないわけでもないけれど、
まあこの毎日が無難に続けばいずれは老後よね、と
また老後とセックスについてのぼんやりした考察。この間15秒。


諦観でもなんでもなく、
ただ、感情のレセプター、反抗子としての駆動部が
一切合切掛けているのではないかとしか思えない。


この世、この人生に根を張らず、責任も受け流し、
牙をむくことも無く、年を取るのを待っている。


若者の多くが、心をすっぽりなくした
流行の、しかし無自覚のサイレントテロリストである。


根を張らず、牙も剥かず、やっきにならず、
放棄には慣れていて、罪悪感は人ごとで、
消費者が最大の生産者である自覚が欠損している。


このままではその波に飲まれそうだ。
波、というよりは、だらだらとした曇り空に同化しそうだ。


執着ということばが、ことに美しく見えて来た最近。


箍の外れた馬鹿よりも怖いのは、
感覚の受容能力をアプリオリに失った人々の集団、
=社会である。




「私の言語の限界は、私の世界の限界だ」と哲学者は行った。
逆だったらごめんなさいな。
とまれ、OWNな言語を持たない人々に、そもそも世界などない。




夜中の極論だといって引き下げたりはしないよ。
無自覚な、事なかれ主義の量産型無思考人間が、
シロアリのようにそこらじゅうを万遍なく食い散らかしている。


「掘り下げない」「関わらない」「コミットしない」
こういった、匂いたつような距離感は、彼らなりの動物的防御本能なのだろうか。
それとも、すでにインプットされてしまっているのだろうか。



2011年6月7日火曜日

選択肢というエクスキューズ

幼児は、知り得る限りの言葉を使う。
殴るのに力加減を知らないのと同じだ。


私は、選択肢を持ってしまった。
言葉を選ぼうとしている。
だから言葉に詰まる。


言葉に詰まっているうちに、
では何が言いたかったのかと
肝心の核の輪郭がぼやけてきてしまう。


そして、利の無いところで完璧主義にとらわれる私は
輪郭のぼやけ始めてしまったものなど
無用とばかりに切り捨ててしまうのだ。


それでいて、切り捨てた筈のものへの未練が
パソコンの中の不思議で無為なメモリ領域のように
蓄積されてしまって息が苦しい。


分かってはいるのだ。


大層な森の中でさまようほどの選択肢など
そもそも私にはないのだということも、
すこしの躊躇の中でぼやけてしまうような心情など
始めから、在って無いようなものだということも、
輪郭のぼやけてしまったものは
一から構築し直そうとしてもどれほど丁寧に修復を試みても
オリジナルには決して戻り得ないことも。





世界は砕けて言葉になる

ここに書くことで何かが整理されればと思っているわけではない。
殆ど土に返ってしまった芋づるを、おそるおそるたぐる思いだ。
まだ言葉はあるのだろうか。


新しい場所を開いて、政治や震災について好き勝手を書こうかと
軽い勢いをつけていたが、やはり書き出すとこうなってしまう。
日記でもなく、意見でもなく、やくたいもなく。


普段、使うことのとんと絶えてしまった語彙を
ここでどうにか生きながらえさせてやりたいような
そんな、絶滅危惧種を抱えた飼育員のような心持ちである。


ああ、情けないことよ。
140文字以上のものを書くのは久しぶりだ。