2011年11月4日金曜日

夢の中での引っ越し

私の夢はたいてい続き物で、
かれこれ数年感、あちらの生活も並行して行っている。


1年に1回くらい引っ越すのだけれども
毎回、引っ越すたびに部屋が広くなる。



2011年10月17日月曜日

よくない状態

希死念慮がある。


この5月から、ずっと続いている。
仕事中は安全だ。集中しているから。
買い物中も安全だ。集中しているから。


うっかり気を緩ませた時に、死にそうになる。
切迫感や焦燥感のある絶望に苛まれて死にたいと思うのではなく
「ああ、そろそろ死のうか」という思いがこびりついて離れない。


薄まらない。押しやれない。


ゆっくり付き合って行くしかないんだろうか。
そろそろ誕生日だ。


私は、何となく、30歳にはなれない気がしている。
それまで気が持たないだろうという意味ではなく、
ぼんやりとした予感として。


来年の手帳を買った。
来年の手帳を買った。


死んではだめです。
死んではだめです。


親を悲しませてはいけません。
親より先に死ぬのは最大の親不孝です。


それでも、どうしてこんなに
死ななければならないという考えが浮き上がってきてしまうのか。
碇を繋いでいた鎖が、腐食して千切れてしまったようです。


私には私の死への慢性的な、濃霧のような歩みを
どうにか留まらせることができるのでしょうか。


何が嫌になったとか、何に追いつめられているとか
そういった類の勢いある死への駆け足ではありません。


足下に溜まった水がだんだんと今、太腿あたりまできていて、
どこに水抜きの栓があるのだか分からず、
それを自ら探し当てようと言う気概がないという現状です。


死にたくはないです。
遺書を書けば薄まるかと思って何度も書きました。
しかし薄まりません。


私は、私の精神が死へなびいていくことが恐ろしい。

2011年9月16日金曜日

たつ時には

母親には 飲みに出たと伝えて
父親には 嫁いだと伝えて
弟には  大丈夫だと伝えて
叔母には ごめんねと伝えて
祖母には 遅くなると伝えて
友人には 軽蔑してもいいと伝えて
恋人には 少しの間だけ私を覚えていてと伝えて

2011年7月18日月曜日

嘘と沈黙

嘘をつくくらいなら、黙っているほうがよい。
これは私の持論の1つである。


沈黙は、嘘ではない。
言葉は、真を目指しても嘘になるくらいだから、
嘘をつくくらいなら沈黙を選ぶ。


その沈黙が肯定と捉えられようともその逆となろうとも、
そうして相手に判断を委ねるような形にたとえ見えようとも、
それでも私は嘘より沈黙を選ぶ。


だから私は、よく話をそらす。
だから私は、よく人に質問をする。


真を伝え合いたい人とは、
同じ話題を飽きもせず続けて、
しかも私が喋り手になりがちである。


聞き上手だねなどと私に言うような人間は、
たいてい私が重要視していない人間だ。



2011年7月17日日曜日

言いたいことと、伝えたいことと。

言いたいことを言うのは大事かもしれないが、
単なる我欲の範疇に陥るおそれを多分に含んでいる。


伝えたいことを伝えるのは難しいが、
私はこちら側を生きる。


会いたい人には会いたいと言い、
会えて嬉しければ嬉しいと言い、
愛しているのならば愛していると言う。


言いたいこと、と、伝えたいこと、とは
似て非なるものである。


前者は、ともすれば投げっぱなしのボール。
後者は、受け手への感情が少なからずこもっているボール。


私が、あなたに対して何も語らないのであれば、
あなたに伝えたところで私には何の価値もないと思っているからだ。

稚拙な思わせぶり

思わせぶり、という態度自体は好きでも嫌いでもない。


ただ、下手糞な思わせぶりには反吐が出る。


自然体を装った思わせぶり、も別にどうでもいい。


しかし、装っているという部分が透けてしまっているのは、
もうどうしようもなく痒い。
そういう類の人間に限って、肝が据わっていない。


浅い。
浅いものは嫌い。
浅はかなものも嫌い。
拙さを自覚していないものも嫌い。


だいたいにおいて、この頃出会う人間は手を抜き過ぎているのが多い。
抜かりのない人間は一歩まちがえばこちらの息が詰まるが、
自分というものを上手に仕上げて振る舞う人間には感嘆する。


感嘆したい。


反面教師が多いのだと前向きに捉えてみよう。
私から、きちんとしてみよう。


しかしまあ、雑な大人の多いことよ。



千利休のギムレット

あけすけな話をしながら、知らない人の話を聞きながら、 
自分の肝要な部分へのアクセスは閉じておく、 
という無責任なことができるから一人飲みが好き。 

一方で、年季の入ったマスターの前では、 
当たり障りの無い穏やかな世間話しかしていないのに 
全部を見透かされているような気持ちになる。これも好き。 


「今夜、すべてのバーで」の中に出てくる夢のような酒。 
まるでその小説のようなお酒に出会って、はまってしまっている。 

味が好きなこれそれのお酒、というのはあるけれど、 
基本的には酔っぱらうのが楽しいと思って今までお酒を飲んでいた。 

そんな観念をぐるりと変えてしまったのが、 
上述した「年季の入ったマスター」だ。 



浅学を漁って何かにたとえれば、 
千利休の点てた茶はこのようなものだったのかもしれないとさえ思う。 

しみじみと、もはや感動の域。作品の域。 

乾き物も何もいらない。お水もいらない。 
心地よく酔うが、酔っぱらいはしない。 


同じ夜、別の店で同じギムレットを頼んでみた。
まったく別の代物であった。
まずい酒、というものも実在するのだなと初めて実感した。



また、面倒なものを覚えた。 






2011年7月11日月曜日

ポップとコミットメント

ポップ:大衆的なもの、と辞書にある。
コミットメント:誓約、注傾といったものである。


はじめに断っておくと、私はどちらの言葉も好きではない。
コミットメント(いっそ柵にもなりうる)から逃げたい人が
無責任にわーわー言っているのがポップかと思っていた。


だが、ポップが対象とする大衆は、
何らかの抑圧を根底に持っている。


昨日までは、ポップにコミットするひとは
単なるミーハーかと片付けかけていたのだが、
突き進んで行くとそう簡単なものでもないらしい。
ポップにはコミットメントがない、と考えていたのだ。


ポップを馬鹿にしていた私のポップ感を変えたのは、
今更ながらマイケル・ジャクソンである。


「KING OF POP」と熱叫するファンたちの姿を見て、
この「POP」は「J-」や「K-」のつく「POP」とは違うと感じた。


そこを掘り下げて行く。


かの時代、「POP」は「ROCK」と通じるもののある、
レジスタント的な立ち位置にある文化ではなかったか。
何に対してレジスタントであるかといえば、
自身が個人的に抱えている劣等感やアンフェア感である。
そういったものをかっさらって余り在るものとしての
「POP」に、彼らは自分をネガ投影してコミットしていた。
人種や、スラムや、性的マイノリティや、その他。


では、現在の所謂POPとは何か。
反骨する対象を失った人たちが、
欠損部分を埋めるやけくそな方法として
半ば無意識な盲目さでPOPに傾倒しているのではないか。


日本に限れば、POPアイドルやPOPアイコンなる者はあれど、
POPスターは存在しないと私は思う。


積極的に自己の抱く劣等感と対峙していた人の多かった時代のPOPは、今日び、
当局が、積極的な消極性で蔓延させたルサンチマンに対する受け皿となった。


お仕着せのPOPであり、オナニー的POPである。


そんなものにコミットしたがるのは、
よっぽど行き詰まっている(のに気付いていない)からとしか思えない。




ポップとコミットメント。
もう少し考える。





2011年7月4日月曜日

(reprise) RACISM IS AN ATOMIC BOMB

Introduction: Racism Is An Atomic Bomb
Racism is an Atomic Bomb. It may sound strange, but it really is. To put it in simpler terms, the concept of racism cam be comprehended better in comparison with atomic bombs. Although racism or racial discrimination is grave issue, the discussion over it has been apt to end up in ambiguous and slippery dispute. This is because 'racism' is in fact an idea, which has no certain (visible) form. Therefore, atomic bombs are very proper example to use in order to explain and define the racism. They have various features in common, not only that both have somewhat negative image. For example, they have similar history of invention and misusage, and both still exist on this earth, scattering fear, retaining some potentianl of next tragedy. When focusing on their similarities which racism and anatomic bombs share some might even say that they are almost the same things. As the things human beings should not have made, racism and an atomic bomb share so many features; in particular, the histories, and their influence.


Birth and Growth
The first common aspect is their histories. Both racism and an atomic bomb have scholars/scientists' interest as mothers, and political distortion and runaway as fathers. Racism began with the anthropologists' trial to find certain groups in human beings. Carolus Linnaeus, a Swedish botanist in 17th century, divided all humans into 4 groups, though, his classification were only "geographical"(Gould 131), contained no hierarchical view. Yet, his follower, Johann Friedrich Blumenbach invented that fifth group and the word "Caucasian"(Gould 129), based on his unconscious bias that the white people are superior to others, means top of the hierarchy. Here, distinguishing people came to mean discriminating people.

As for atomic bombs, there cannot be seen any evil intention in the work of Marie Curie. However, the radiation she discovered attracted many scientists; for example, Albert Einstein who participated in the Manhattan Project, Edward Teller who tried to make a hydrogen bomb, and J. Robbert Oppenheimer who finally succeeded in completing the first atomic bomb. Thus, in the July of 1945, the first bomb named "Trinity" was dropped in New Mexico, for the experiment.

On atomic bombs, there is a difficult discussion about the moral and responsibility of the scientists who took part in making them, because they kept working while knowing that they were arms. Therefore, it cannot be avoided that those scientists could be blamed for their work, yet, even the scientists themselves did not know what strong power the bombs would have. Thus, there are quite a few scientists who strongly regret that they have made. For example, being shocked to realize what he had done, Einstein devoted the rest of his life to the anti-atomic bomb movement, after the bombing. Bernard. T. Felt, one of the members of the Manhattan Project, said that he was shocked to know of the second bombing in Nagasaki. For him, the first bombing was a kind of "good" news, because it mean that he achieved the goal of his study as a scientist. Yet, the second bombing had a different meaning: it showed him and other scientists that the bombs had left the hands of them and fallen into the hands of the army. Bernard also says, "in general, once scientists and technical experts agree to participate in a project which they have no right of management, they become mere 'tools', whatever opinion they might individually have.... This is very dangerous."

The discoveries of the racial classification by Linnaeus, and radiation themselves were harmless. Even the hierarchical human groupings and the atomic bombs could be innocent; if one insists that they were mere results of scholars' pure interest or they just did what they were told to do. However, those scholars' biggest mistake was that they were not aware enough of the influences which their studies would bring to the world, although they may not be capable of taking responsibility for the results. Stephen J. Gould comments, "ideas have consequences"(134), and they did. Bombs are arms, whether they were made on direct purpose to kill people or mere products of scientists' curiosity. Likewise, racial groupings had enough possibility to be misused to do certain people harm, in other words, as arms. Both of them were born innocent, then grew to be arms, or to be much more dangerous than their originators' expectation.


Mass Killing In The War
Their second common point is that both racism and atomic bombs were actually used on a large scale to take millions of lives during the World War 2.

The Holocaust---genocide of Jews by Nazis--- and the bombing Hiroshima and Nagasaki are famous tragedies. Needless to say, the former is a very example that shows racism, an idea, could be horrible, deadly weapon which killed approximately 6,000,000 Jews (Lamzman 6). The latter tragedy proved that arms were arms. During 1945, about 140,000 people were killed in Hiroshima, and 60,000 in Nagasaki. In addition, more than 100,000 people additional people died by 1996 because of the bombs' radiation (Fujinaga 202). In both Holocaust and bombings, it was no the scientists themselves who willingly decided to use the results of their studies for the war. On the contrary, the authorities at that time used those ideas. In fact, Truman said to one of his staff that what Oppenheimer did was only to make bombs, and it was Truman himself who exploded them. Again, Gould's words hit home very ironically. Ideas have consequences. Indeed.


Repentance By Human
Thus the third similarity appears. The damage and shock that racism and the atomic bombs brought to the world---human, environment, and history--- were so enormous that people decided not to repeat the same, terrible mistakes. As outcomes of their solution, some international laws and declaration were formed. For instance, PTBT(partial test-ban treaty) in 1968, START(strategic arms reduction treaty) 1, 2 in 1991 and 1993, and CTBT(comprehensive test-ban treaty) were ratified by nations. For the racial and other discriminations, the Universal Declaration of Human Rights in 1948, and other international human rights treaties were declared by the United Nations.


Invisible Influence Of Visible Facts
The fourth common feature is that both of them are still on the earth. Although the world started to take action to abolish racial discrimination and nuclear weapons, it is an incredibly hard task for human to achieve. Difference of people and nuclear missiles exist as visible things. In addition, these visible facts still have tremendous invisible, deep-rooted power and threat on people, such as racial prejudices and nuclear deterrent. Invisible idea of racism surely prevails on the society, just as radiation spreads undermining the land. Moreover, even if all nuclear weapons were thrown away, radiation remains. Those who had been hurt, and the nature polluted also stay. Focusing on the racism, banning discrimination by laws would not be the perfect solution. Because even if all racists were arrested and tried, racism itself can slip out of the courts and jails. It is very difficult to detect and do away with the invisible harm.


Conclusion: Races are Atoms
To summarize, racism and atomic bombs have similar history and characteristics in common.

1. They used to be just the products of scholars' curiosity, and were turned to be harmful weapons.
2. The innocent ideas left the hands of the scholars, and were politically distorted, then used to make tragedies during the war.
3. As people regret, they made promises and decisions to prevent another disasters from coming true.
4. Although there are laws and people trying to throw away these evil human products, it is difficult. Because visible facts still exist, spreading the invisible influences. 

If it can be said that racism is an atomic bomb, it is possible to liken the difference among people(which is often called 'race') to atoms. As they are similar in that both are harmless unless some try to make bad use of them. In addition, as long as there is more than one person, people's difference will never vanish, just as atoms cannot be gone from this earth. This means, there still are the sources to generate another discrimination and bombs. Thus, what we need to do, what we can do now is to be alert to the movements which may trigger the next explosion. Lastly, the most important thing is to remember the racism and an atomic bomb's fifth common thing. They are the same things, in that both can never bring peace to the world, to the heart.





Works Cited
Ian Barasch, Mark. The little Black Book of Atomic War. Trans. Naoki, Yanase, and Yumiko, Saijo. Hakuyosha, 1985.
Iwao, Ogawa, et al. Kokusai Symposium: Genbakutouka to Kagakusha [International Symposium: Atomic Bombing and Scientists]. Mod. Sanseidosensho Ser. 62. Sanseido,1982.
Jay Gould, Stephen. The Geometer of Race. Discover, 1994 (In ELP Reader, 2000. 127-140)
Lanzman, Claude. Shoah. 6th ed. Trans. Takemoto, Takahashi. Sakuhinsha, 1996
Shigeru, Fujihara. Robert Oppenheimer: Orokamono To Shiteno Kagakusha [Robert Oppenheimer: a Scientist as a Fool]. Mod. Asahisensho Ser. 549. Asahishinbunsha, 1996.





(Nov 21, 2001)

2011年6月18日土曜日

胸を掻いた



胸に爪を立てて強く掻いたら
ぞらぞらと洞穴の音がした
ここに何もない筈はないのに
鎖骨の下は 留守だ







情緒の正体

人の話を聞くのが好きだ。


想像を超えた具体性があるからだ。


具体性のある、ディティルのある話を聞いていると
その辺のニュースよりもよっぽど興味深い。


思うに私はディティルのある人が好きなのだ。
身の回りの品々や、茶飯事の手順に拘るという意味ではなく、
その人なりの細かな気付きを持って毎日を暮らしている人。


大きなものを上から下へ、あるいは右から左へというのではなく、
小さなものを、小さなものとして伝える人を好ましく感じる。


靴の中にいつ石が入ったのか不思議に思った、だとか
僕の自転車には前に3つ、後ろに8つのギアがついていて、だとか
どうでもいいことは、本当は、決してどうでもよくなどない。


不幸せなことにも、幸せなことにも、
それぞれかけがえのないディティルがある。
だが、幸せにも不幸せにも明確に計上できない物事には
遥かにたくさんのディティルがある。


考えてみてほしい。
この一日のうち、どれだけのあいだ幸せを感じていて、
どれだけのあいだ不幸せに陥っていたか。
あるいはこのひと月のうち、またはこの一年のうち。


日々のこれそれにある具体性をどれだけ無意識に保持していられるか。
たぶん、私が考え自他に求める情緒というのはこれにかかっているんだろう。









2011年6月14日火曜日

引っ越し

今度引っ越すから、もうここにもあんまり寄れなくなるな、
とか何とかいって、ちょくちょく顔を出す店に
ワインの一本でも持ってふらりと入って来た人がいた。


その人も少し酔っているようで
もちろん店の中は皆あまさず酔っていたので
仔細な長話はせず、そのわりに顔見知りたちと
さみしくなるな、なんてしみじみしていたりもした。


どの辺に?と聞かれたその人は、
詳しいことはまだ分からないんだけども
住所決まったら、まあこの店にでも連絡するよ、
なんて答えて、お持たせを空にして帰った。


それからしばらくして、
店のマスターが人づてに知ったところによると
その晩の人は、その晩からひと月経った頃に
自分を頸って死んだのだという。









「実」の在処

「実(じつ)」はどこにあるのだろうと考える。


世にも人にも実がなければ生きて行く甲斐がないというものだ。


それとも、実を得たり創ったりするために
一見あくせくと、遠目には大概似たように生きているのだろうか。


実を目指して、実に向かって、
それを渇望しているのだろうか。


あまりに味気ない。
すべてが、つくりもののように見える。


そうです人間は本当は電池で生きています。
地球は、大きな生き物の細胞ですが、
大きな生き物と人間との間に位置する知性体というのもいて、
人間というのはその中間知性体のすごろくなんです。


なんて言われたらそうなのかもしれないと、
初夏の夜の空気に探す肌寒さ程度には納得してしまいそうだけれども


ではなぜ私は私で、
妙な愛のようなものを抱えて右往左往しているのだと問いたくなって
何に問おうか分からないときには空の方に顔が向くので
やはり中間知性体みたいな奴がいるのかもしれないと
ぐるぐる変なことを考えているのです。







弟子はさみしい

私には師匠が4人いる。
心の中で師匠と敬っている4人。


ひとりはサックスの師匠。
ひとりは自由人の師匠。
ひとりは頑固者の師匠。
ひとりは日本語の師匠。


自由人の師匠が結婚した。


先月、2年か3年ぶりに会ったときには
全然そんな話にならなかったんだけども
ついに結婚した。


自由人の師匠が、いつのまにか40代に入っていたことに
先日のぶらぶら散歩中に知ってそれは驚いたものだ。


弟子はすこしだけさみしい。



2011年6月10日金曜日

もしも世界が100人の

「もしも世界が100人の村だったら」といった本が
一時期流行ったのを思い出した。


それに対して禁じ得なかった違和感の正体が
物事がほぐれるようにやっと最近になって分かった。


あれは、「あなたは相対的に幸せであることを知れ」というものだ、
と私は理解しているのだが、その「相対的に」というのが頂けない。


人間は、絶対的に、つまり自分の満足水準として、
幸せであるかどうかを自分で感じるべきなのだ。


物理的尺度、無機質な情報サンプルとして
人間をクラシファイするのは不自然だ。


得体の知れない感謝の強制によって
納得のいく幸福度に繋がるとは思えない。


きっと、比較の上に成り立つ幸福尺度にすがりつく他ないほど
自分なりの価値基準や幸福判断ができない風潮の時期だったのだと思う。


今はどうか知らない。







2011年6月9日木曜日

背中を読む

部屋を片付けた折に、
枕元の本棚に置く本のラインナップを変えた。


枕元の本棚というのは文字通り、
枕に頭を置いたままで手が届く、
ベッドに隣接した本棚だ。


枕に頭を置いたまま右を向けばそのまま眼に入る一角を
今までは、未読本を置くコーナーにしていたが、
これを新しく、気に入りの本だけを置くコーナーにしてみた。


覿面である。


夢十夜、漂流物、香水、柿の種、バートルビー、
蜘蛛女のキス、タクシー運転手の賢言…。


背表紙を眺めているだけで安心する。
何度も観た映画(見慣れた映画、とでも言おうか)を
BGMに流している感覚になる。


新しい本を次々に読まなくては、というのは
単なる一種の強迫観念であり、またある種のプライドである。


一連の背表紙を眺めていると、
そういった気負いから解放される。
本に対する気負いから解放されると、
「気負いからの解放」が他の事々にも伝播するようで
なんとも気楽な、ゆったりした脈になる。


そうして、矛盾するようだけれども新たに、
ここに加わるべき相性の良い本を見つけていきたいと
非常に穏やかに望むようになる。


対人関係についても同じようなものかもしれないなと思う。
背中や横顔を見ているだけで安心できるような旧い人は大切。
新しい人間関係をとりあえず広げなければというのは
強迫観念でもありプライドでもある。
一方で、人との新しく深いつながりに、まだ希望を抱いてもいる。


捨てた方が良さそうな気負いは
探せば探すだけありそうだ。
穏やかに欲するべき事と同じ数だけ。


そして眠る。



2011年6月8日水曜日

根も牙もなく

私の想像する、最近の量産型人間の成長過程。


幼年:
若い父母のもとに生まれる。
市販の食料やおむつを与えられる。
家具の角には尖ったところがない。


幼少:
危ないところには行かないようにと言われる。
そもそも行ってみたいとも思わないし
一緒に行こうかと思った同級生は塾で忙しい。
一人で立ち寄った公園は閑散としていて、
「大声出さないで」「ボール遊び禁止」の札が掲げられてる。


この時点で、虫を殺したこともなければ
派手にすりむいて大泣きしたこともない。
少し熱が出れば、市販の熱冷まシートが待っている。


思春期;
型通りの受験勉強をおえ、落ち着くべき進路に入る。
点数で振り分けられたところの。
あるいは一足早く働き始める。
このころから、セックスと年金について考え始める。


少年期;
アングラなもの、サブカルなものに釣られる。
しかし、サンプリングされているのは誰なのかとか、
オマージュの対象になっているのは誰なのかとか、
どんな会社がその「もの」に関わっているかには無関心。
ここで大半が、エイベックス的なものか、電通的なもの、
UST的なものか、ファストファッション的なものにかっさらわれる。


青年期;
自分の町が他の町とだんだん似て来ている、という
致命的な事実に気がつかないまま、
自分の町の特色について知ろうともしないから
「やっぱ地元って落ち着くんだよね」というトーンで日々が過ぎる。
チェーンの居酒屋で仲間内で飲む。アルコールならなんでもいい。


その後は私にも未経験の領域であるからここからは想像。


・精神的に、何にもコミットしていない
・チェーン店:安くて便利、だと思っている
・つぶれて行く個人店の殆どには入ったこともない
・あの店(もちろんチェーン)が近所にできた!でちょっと喜ぶ
・中堅どころの知識人を取り巻ける人は取り巻いて、
 その内容よりも追っかけている自分に満足している。
 そして、自分そのもの裸一貫分の自分に満足しているかどうかは
 考えようとしてもすぐやめる。


この間じゅうずっと、年金とセックスについて考えている。




どこかに覚悟を決めて根を下ろすこともなく、
降りてしまった根の上でいっぱしに眉なんか寄せてみるけれども
寄せる根拠なんて2センチ掘り返した時点でわかるくらい何もなく、
空虚の代わりに惰性が横行しているので本人たちはそれなりにざわざわしていて
しかし、うさんくさい広告代理店やなんかの策略どおりに動いている、
均一都市化に、自分の個性(あれば)も含め絡めとられている。
そのことに気がついていないわけでもないけれど、
まあこの毎日が無難に続けばいずれは老後よね、と
また老後とセックスについてのぼんやりした考察。この間15秒。


諦観でもなんでもなく、
ただ、感情のレセプター、反抗子としての駆動部が
一切合切掛けているのではないかとしか思えない。


この世、この人生に根を張らず、責任も受け流し、
牙をむくことも無く、年を取るのを待っている。


若者の多くが、心をすっぽりなくした
流行の、しかし無自覚のサイレントテロリストである。


根を張らず、牙も剥かず、やっきにならず、
放棄には慣れていて、罪悪感は人ごとで、
消費者が最大の生産者である自覚が欠損している。


このままではその波に飲まれそうだ。
波、というよりは、だらだらとした曇り空に同化しそうだ。


執着ということばが、ことに美しく見えて来た最近。


箍の外れた馬鹿よりも怖いのは、
感覚の受容能力をアプリオリに失った人々の集団、
=社会である。




「私の言語の限界は、私の世界の限界だ」と哲学者は行った。
逆だったらごめんなさいな。
とまれ、OWNな言語を持たない人々に、そもそも世界などない。




夜中の極論だといって引き下げたりはしないよ。
無自覚な、事なかれ主義の量産型無思考人間が、
シロアリのようにそこらじゅうを万遍なく食い散らかしている。


「掘り下げない」「関わらない」「コミットしない」
こういった、匂いたつような距離感は、彼らなりの動物的防御本能なのだろうか。
それとも、すでにインプットされてしまっているのだろうか。